ゲイだけど『怪物』観に行って良い作品だと思った。①

是枝裕和監督の『怪物』を観に行った。

以下、とりとめもなく感想を書いてみる。

何の遠慮もなくネタバレをするし、あらすじの説明もない。

 

gaga.ne.jp

公開前後の頃から監督の発言や内容について、クィアとかセクシャリティ関係の批判をtwitterでチラ見していた。

是枝監督の作品は5年くらい前に『誰も知らない』を見ただけで、そのときはあまり良い印象を持っていなかったので、そんなこともあるかなと思った。しかし、同性愛を扱った映画っぽいので、内容は気になっていた。

一方で映画をよく見るtwitterのフォロワーが絶賛しており、更に気になった。フォロワーの感想を無条件に信頼しているわけではなく、むしろ違う感想を可能なら自分の力で見つけたいという気持ちがあった。

 

そのような背景があった上に、土日に二日連続で映画を観に行っていた(『アキとハルはごはんを食べたい』『ソフト/クワイエット』)ので、勢いで月曜の夜にレイトショーで『怪物』を観に行った。

 

映画は3部構成になっていたが、劇場で見たときの感情の流れはこんな感じだった。

 

    1部: ふーんこんなもんか

    2部: なかなかうまいな

    3部: 涙が止まらん……

 

やはり、twitterでの批判から偏見があったので最初は舐めてかかっていたが、まんまと乗せられてしまった。思ったよりいい映画だなと自分は思った。

 

見終わってtwitterで評判を眺めてみたら、自分の思っていた以上に特に性の関係の描写の批判が多かった。中にはセクマイの当事者はこの映画を見たら絶対に傷つくので見ない方がいい、というのまであった。映画を否定する「当事者」と肯定する「非当事者」に観客を極端に二分する意見も目につく。

こういう意見を多く見ると、『怪物』に「当事者」寄りの気持ちで感動してしまった同性愛者として、私なりの感想を残しておいた方が良いのかな、と思った。

 

ラストについて

ラストが絶望的で最悪、湊と依里は本当は死んでる、という解釈がある。

私は、二人は生きているし、希望のある終わり方だったと解釈している。この解釈に正直、めちゃくちゃ強い確信は持っていない。

 

映画を観ているときは、嵐の秘密基地の場面になって、これ死亡エンドだったら最悪だなとハラハラしていた。そのときの私は、この映画に対して圧倒的に「善い」という感想を抱いていたので、裏切られるのを恐れていた。

果たして、湊と依里は泥だらけで廃列車から這い出てきて、台風一過の青空の下で元気で走り回っているではないか。「生まれ変わり」なんかが希望じゃなくてよかったなあと胸をなでおろして涙をぬぐって劇場を出た。

 

帰ってから合理的に考えると疑念がわいてきた。列車をのぞき込んだ母親と教師は二人をすぐに見つけられなかったし、線路のフェンスは頑丈そうで嵐が吹いたくらいで無くならない気がする。最後の場面はあの世の世界で、やっぱり死んだという解釈が正しいような気もする。

 

原作を読んだらとどっちが「正しい」か一つの答えを得られるかもしれないが、映画の答えは映画の中にしかないと思う。(後でやっぱり気になって調べたら原作はなかった。)

この映画の物語全体を通して考えると、やはり生きている、という解釈でかまわないように感じられる。

 

人の視点によって異なる景色が見えてくることを描いた映画である。もちろん真実はたった一つで、ラスト以外、画面に映っていることは全部事実と解釈してもおかしくはない。しかし、各章の主人公の主観で歪んだ事実や、あやふやな記憶が映像に交じり込んでいると考えるのもそう的外れではないように思う。私は映画を観ているとき、第一部での校長室のシーンがあまりにもシュールで、映画内の事実からやや誇張したものが画面に映し出されている、と解釈していた(二部では完全にリピートされなかったのでちょっと曖昧だ)。

そう考えると、母と教師が二人を見つけられなかったのは彼らの何か思い込みがそうさせたのかもしれない。本当はそこにいるのだけどメタファー的にまだ彼らの視点や耳に二人の姿や声が届いていないのかもしれない。

フェンスがなくなったのも、二人の子供の心の中にあった障害のようなものが吹き飛んだ、という心象を表している誇張だったりしないか。(そもそもフェンス自体が、最初から彼らが絶対に乗り越えられないような高さではなかった気もする。)

 

もう一つの生きている、という根拠は、この映画が子供たちにそんな絶望的な物語を語ろうとしている、とあまり信じられなかった。この根拠はちょっと弱いかもしれない。

私は是枝監督の作品を他に『誰も知らない』しか観ていないが、大人/社会は子供たちに必ずしも優しくないけれど、子供たちは大人が思っているよりも基本的にタフで生きていく力がある、というスタンスだと考えている。『怪物』もそういう話だと観ながら思っていた。というか、子供を描いた映画ってほとんどそうではないだろうか。

トランペット、風呂場からの救出、という精神的な「生まれ変わり」の場面を描いて、もう一回彼らを肉体的に殺そうとするほど意地の悪い人が、この映画を作っているんだろうか。どうなんだろうか。

 

でもこの映画作った人が子供たちに生きていて欲しかった、と考えているなら、もうちょっと現実的に生きてるんだと分かる描写にしても良かった気はする。

 

 

もっと書きたいことがあるが今日はこれまで。