夢日記 福岡旅行

福岡に行く夢を見た。福岡に実際に行ったことはないので福岡がどんな場所なのかほとんど知識はない。以下に記す夢の内容も実際の福岡とはほとんど関係がないはずである。

 

福岡駅についたのは夕方だった。車窓の景色を思い出せないから地下鉄で来たのだと思う。改札を出た私は今おそらく地上から5階くらいの高さの狭くて殺風景な場所にいる。右手には古い美術館の入り口受付のようなものがあり、土産物(炭酸飲料のほかたぶんお菓子など)が売られているが店員はいない。売店の前を通り過ぎると外に出て大きな橋が続く。それを渡った先に福岡駅のセンタービルがある。

センタービルは先ほどの殺風景な駅とは異なって活気に満ちており人が多い。どんな店があったか思いだせない。センタービルを進んで左から外に出ると綺麗に舗装された歩道があって、その先を6車線くらいある広い道路が私の目の前を横切っている。これが福岡のメインストリートらしい。外にも多くの人がいてにぎやかだった。やや薄暗くなってきてはいるが、まだ街灯がつくほどの暗さではない。

駅ビルを出て左手にずっと進んでいくと狭い道になってきて人もごみごみしてきた。土産物のような古い店が立ち並んでいる。右手に神社のようなものがあって梅の木が生えている。私はそれを太宰府天満宮だと思った。神社にも門限があるのか鉄門が閉まっていて中が見えない。門の中から中を見ると校庭のような場所で紺の学帽学生服を着た少年が遊んでいる。神社だと思っていたのは小学校のようだった。こういう場所をのぞき見しているのは良くないと思って恥ずかしくなった。駅に出てから30分くらい経っている。

私は学生街のような場所にいってそこで安い飯を食べたくなった。九州大学の近くにいけばそれがあるはずである(起きてしばらくして九州大学は熊本にある気がしたがやっぱり福岡にあった)。Googleマップで九大の場所を調べてみたら福岡駅前からJRの駅一つ二つぶん離れた場所にあって歩いて行ける距離ではないなと思った。福岡駅の駅ビル内で安い蕎麦屋か何かに入るのが楽だと思った。

福岡駅に戻る道はなぜか山道のような場所を歩いている。今歩いている場所に木々はなく周囲は赤茶けた土がむき出しになっている。僕はそれを昨年の豪雨災害によるものだろうと思った。山道を進んでいくと杉林のようなものに入っていくようだったがそんな場所を歩いた記憶はない。

結局何も食べず何も買わないまま最初の殺風景な場所に戻ってきている。例の売店の億をのぞき込んでみると張り紙があってここは無人販売所で皆さんの善意に支えられていますというようなことが書いてあった。ここで買わなければ福岡土産は何も持って帰ることができないが別の駅で買えるような気もしたのでそのまま改札に向かっていた。

7時半くらいに目が覚めた。外は雪が積もっている。

今年を振り返る

twitterのログを見ながら今年を振り返ってみる

1月

卒論を提出した。書くのは今年で3年目になる。1年目は書けなかった。2年目は提出できたけどいろいろあって留年することになったので不可にしてもらった。今年はそれなりに余裕をもって提出したつもりだったけど提出日前日とかだった。去年は締め切り1時間前とかだったので進歩と思っている。内容は本当にゴミ。

就活も院試もなくなったので暇になったから何の目的もなく図書館の書庫をぶらぶらした。卒業したからといって大学の教室でも図書館でも部室でも寮でも自由に出入りできるが書庫だけは別なのでこういうことできるのも今のうちかなーという感じで。あと学内アカウントで聞蔵とかいろいろデータベースを見れるのもいまのうちだと思ってたら卒業後も普通に使えてこれは便利と思っていたら6月くらいで繋がらなくなって悲しかった。

暇なのでバイトにも復帰した。出版社の校正。原稿とかゲラを読んで見出しにマーカーで印をつけたり句読点が変じゃないかとか探す仕事である。何の断りもなく3, 4カ月くらいサボっていたが復帰できたので良かったなあというかまあそれくらいの仕事で作業自体はそんなに楽しくはなかった。でも自分の知らない分野の専門書(になるもの)を読むのも、自分が関わったものが市場に出回って誰かがそれを読んで勉強したりするのだと思うのもなんかおもしろい。そういう仕事に就くことはできなかったのだろうか。こんな雑な文章しか書けないので無理そう。

2月

卒論の口頭試問というのがありめちゃくちゃ怒られた。何も褒められなかったし去年やっているのだから何を聴かれるかくらい分かるから準備してこいよと言われてもっともだった。そもそも今年は卒論を書くのにほとんどアドバイスをもらってなくて自分の成果物を出したのも卒論が本当の初めてだったと思う。卒業はさせますが評価は極めて低いことを覚悟してくださいと言われた。成績表は75点だった。正直60点とかだと思っていたのでわりと悪くないじゃんと思ってしまったが6年間の学業の成果がこれというのはやっぱりだめなんだろう。ちなみに去年は59点だった。

卒論書いている途中である本を読んでそこに致命的とはいえないがワンセンテンスくらい意味が通らなくなる間違いがあるのに気づいて著者の先生に知らせたことが去年あった。たまたま同じ大学の人だったので研究室に呼ばれてお茶出してもらって著書を一つもらったりした。たまたまその本の改訂版を作っている途中ということで今年の秋くらいにそれが出て自分の指摘した箇所が直っていた。本当にしょうもないことだけど、ゴミみたいな卒論を書いていろいろな人に迷惑をかけた自分でも、人類の文化に多少貢献できたのではないかと思った。

このころ絵日記と称する落書きをアップロードし始めた。最初の作品が最高傑作だっと思う。絵でしか表現できない何かがある。イラストの勉強をしようとしたりしたけどそんな手をつけられなかった。

暇なのでいろいろなことに手を出す。友達が古本屋をやりたい、古物商許可を取りたいといったのでやる気になった。まず戸籍がいるらしいので役所に取りに行った。出生地が思ってた場所と違うなどの発見があった。と書いたけどパスポートを作るために取りに行ったような気がする。パスポートは作ったけど今年は外国に行ってない。

朝まで焚火をしたり花火をしたりした。

3月

何もないことほど素晴らしいものはない。今年の1月から3月の暇な時間を取り戻したいという気持ちでこれからの人生を生きていくのだと思う。

引っ越しのために身の回りの整理を始めて本を売ったりした。多い時には7000円くらい手に入った。大学1,2年の頃に買った本が多い。だんだん自分の興味関心が定まってきて自分が持つべき本じゃないなというのが出てくる。

僕は留年した2年前から大学の寮に住んでいた。寮生活はすばらしかった。もともとここでの生活にそんなに期待を持っていなかったが、あまりにも素晴らしいルームメイトや友人と出会ってしまった。正直離れたくなかったが僕が離れなくてもいつかはみんなも離れてしまうからおんなじだということは最近になって分かってきた…。寮のことについて書きたいことはとてもたくさんあってここではもう書くことができない。

寮から出るならせめてシェアハウスみたいなことがやりたいと思って物件ないかなーとかやってたけど結局金がないしやめるかみたいなことになった。今は実家に住んでいる。今書きながらやっぱり誰か家族以外の人と住みたいと思っている。少なくとも来年には家を出ようと考えている。

4月

もう書くのが面倒になった。働き始めた。最初は本当に嫌だった。仕事のことは書きたくない。3年くらいで自由になることを考えている。

花粉症がつらい

5月

花粉症がつらい。

夏から秋へ

深夜に異常なテンションで打ち上げ花火上から見るか下から見るかを見たことや養老天命反転地で雨に打たれたことが印象に残っている

そして冬

寒い。僕は精神が大人になっていないのに自分ひとりだけせわしない世界に放り出されたような気持ちでいたけど自分の接しているところのひとつにいる人たちは本当に働いている人が多数を占めるようになってきて悲しい。そしてまた別の接しているところの人たちはいつまでもモラトリアムを生きていると思っていたけどやっぱりいつかみんなも…ということが見えてきたような気がする。

が、卒業したけどやっぱりよくわかんねという人もそれなりにいるのでそういうものかもしれない

平成のその先へ…

来年の目標

・生活の場を作る

・映画漫画小説などをがんばる

翻訳の自由

2年前の青空文庫のブログ(1月1日)に法学者山田三良の「翻訳自由論」というものが紹介されていた。山田は戦前にベルヌ条約を批判して、東洋と西洋のような言語が大きく異なる国の間では、翻訳を自由にする(著作権保護の対象外にする)ことを主張していたらしい。

この文章にちょっと間違いがあって(こっちにも同じ内容の文章があるけど)、山田が万国著作権会議に出席したのはフランス留学中の1900年だけど、山田の翻訳自由論が書かれた論文「学芸協力と翻訳権問題」(『国家学会雑誌』)は1938年でだいぶ時期が違う。この間に山田は東大教授、京城帝国大学総長を歴任しており偉い人になっている。

日本が著作権として翻訳権を保護するようになったのは1899年のベルヌ条約加盟と1900年の著作権法制定に始まるのだが、その頃からずっと山田は翻訳の自由を主張していた。

1938年というと日本は日中戦争をやっていて世界的に大変なことになっており、いろいろ変なことが起こっていた。著作権絡みでいうと30年代の日本では「プラーゲ旋風」という事件が起こっていたが、著作権研究家の伊藤信男によればプラーゲ旋風への対策として翻訳自由論とベルヌ条約脱退論が台頭してきた。

 現在では考えられないことかも知れませんが、文化人・有識者の間から、こういう論議が生じてきたことも、当時の情勢下においては、あえて異とするに足りないように、当時の空気を吸ってきた私には思われるのです。*1

 この本で伊藤は触れていないのだが、他人事みたいに語っている伊藤自身も翻訳自由論を主張していた。伊藤はもともと内務省の官僚で、1935年から39年まで警保局図書課で著作権行政をやっているうちに著作権オタクになったらしい。伊藤の翻訳自由論は「翻訳自由の理論と実際」(『日本法学』5巻5,6,8号,1939年)という論文に書かれている。これを読むと「当時の空気」というか総力戦体制下でキマってしまった人の姿が見えてくる。

山田の翻訳自由論もこういう時代背景の中で影響力を持つようになったらしい。

というような話というか、戦前の翻訳権に関する議論に関していろいろ史料を集めていたのでやる気があったらこういう感じでグダグダ書いていこうと思います。

 

・日本の翻訳権史についての主な文献

山田・伊藤の前掲文献

大家重夫『ニッポン著作権物語 プラーゲ博士の摘発録』(出版開発社、1981 年)

国塩耕一郎「翻訳権に関する史的考察」(『警察研究』9巻6,7,9号、1938年)

作花文雄「Q&A 翻訳権をめぐる著作権制度の歴史」(『コピライト』39(459), 1999年)

著作権法百年史編纂委員会編著『著作権法百年史』(著作権情報センター、2000 年)

中村元哉「近現代東アジアの外国語書籍をめぐる国際関係 -中国を中心に-」(『中国: 社会と文化』22号, 2007年)

宮田昇『翻訳権の戦後史』(みすず書房、1999 年)

 

*1:伊藤信男『著作権事件 100 話―側面からみた著作権発達史』(著作権資料協会、1976年)、139頁

パソコン買った

パソコン買った

会社で使っているパソコンと比べるとなんかゴツくて慣れないところがあるけど前のパソコンと比べると比べ物にならないほど使いやすい

 

前のパソコン

大学に入学したときに買ったパソコンです。だから7年目。5年目くらいからバッテリーの充電ができなくなった。6年目になるとすぐ熱がこもって熱くなった。

機械音痴なのでパソコンを自分でこじ開けて何かしようと思ったらファンがひっかかって回らなくなった。起動するたびに回らないファンがものすごい唸り声を立てていました。磁石を近づけるとファンが止まって音が鳴りやみます。しまいに磁石をパソコンに張り付けて使うようになりました。

そんなんでもどんどん性能が落ちていって今年の夏ごろにはまともにインターネットも見れないし文章も作れなくなりました。今起動したらなんかもう起動しなかった。

 

こんなに駄目になってしまったパソコンだけど6年間(大学2留した)苦楽を共にしてきたパソコンには愛着があります。講義のレポートを書いたのもこのパソコンだし、3回書いた卒論もこのパソコンだった。朝までアニメを一気見したりチャットサイトから深夜に勢いでオフ会に突入したのもこのパソコンだった。そんな日々があった…

 

あとパソコンどうやって処分したらいいのか分からない。データ消すのかどうすんの。

 

パソコンでやりたいこと

だいたい一年くらいパソコン使ってなんかするということをしていない。ので何かしたい。けどたぶんあんまりできないと思う。文章書くのが苦手なので。文章書きたいんだけど。それで卒論も二回落とした。パソコン軽くなったら文章書けるようになるのかというとむしろ文字がずっとすべるみたいで駄目な気がする。わからん

最初の記事

こんにちは。薫です。パソコンで文章を打つのは久しぶりです。仕事で一日中パソコンを触っています。毎日家に帰るともうパソコンに向き合うのが嫌になります。

 

パソコンからものすごい熱が出ていて怖くなってきたので今日はこれで終わります。